©Michel Lidvac
ダンサー、歌手、演奏家、俳優といった人たちは、卓越した名人芸の持ち主であると同時に、ふつうの生活では持て余してしまうような「ちょっとヘンなところ」を併せ持っていることが多い。普通に話しているときは、特におかしいところはないけれど、舞台はすべてがオープンになる場所。そこで、普段隠していた「ちょっとヘンな自分」を全開にする。舞台は彼らの精神のバランスを保ち、「正体」が明らかになる神聖な場所なのだ。
バレエ・ダンサーは美が命なので、若くて綺麗なうちはお姫様・王子様の役を踊ることがどうしても多くなる。主役級のダンサーであればあるほど「正統派」のプリンセスやプリンスを演じる義務が与えられる。いつぞや、ボリショイ・バレエのルスラン・スクヴォルツォフがこうぼやいていた。「王子よりも本当は悪魔のような役を演じるのが好き。本当の僕は王子より風変わりな役を求めているからね」。長身で綺麗な顔をしているため、どうしても王子ばかりになる…と贅沢すぎるようで切実な悩みを語ってくれた。
まもなく開幕するシュツットガルト・バレエ団の来日公演では、「あの王子たちがこんな悪役を…」という、目が白黒してしまうような刺激的な演目を見ることが出来る。性格もタイツも黒い、クランコ振付の『オネーギン』を、プリンシパルのフリーデマン・フォーゲルと、ゲストのマチュー・ガニオが踊るのだ。青年貴族のオネーギンは、帝都ペテルブルクから田舎の地主の家に遊びにやってきた洗練された男性。プーシキンが創造したこの人物は、要約すると「キザでプライドが高くて自分勝手で相当イヤな奴」だ。純朴な娘タチヤーナから渡されたラブレターを「くだらん」とビリビリ破いて乙女心を粉々にし、善良な友人レンスキーを挑発して決闘を申し込まれ、勢い余ってピストルで倒してしまう。親友を撃った彼は隠遁者となり、時がたってタチヤーナと再会するが、既婚者となった美しい彼女を見て魅了され、今度は自分から彼女にラブレターを書くのだ。一度振った女に、今度は自分から告白する…女性にはありえない心理であり行動だが、男性にはこういう勝手なタイプもいるのだ。
©Stuttgart Ballet
オネーギンは意地悪で、世の中を馬鹿にしている孤独なロクデナシ(しかし貴族なのでお金には困っていない)だ。その意地悪な男を、真っ白な王子役が似合うフリーデマン・フォーゲルとマチュー・ガニオが踊る…バレエ好きにしてみると、まさに垂涎のキャスティング。幸福なプリンスとは正反対の、みんなに不幸を振りまいていくダークな男をどんなふうに演じてくれるのか…ダンサーとして、俳優として、これほどやりがいのある複雑な役はないだろう。
フリーデマン・フォーゲルは、今まで善良なレンスキーを踊ってきて、親友オネーギンに殺される役どころだった。シュツットガルト・バレエ団の芸術監督タマシュ・デートリッヒは、成熟したフリーデマンに「嫌な男」を踊るチャンスを与え、記者会見でもホクホクしていた。とてもいい出来栄えなのだろう。30代半ばを過ぎてアクの強い役が似合うようになってきたのだ。
同じくらいびっくりなのが、マチュー・ガニオ。パリ・オペラ座のエトワールであり、絵に描いたようなダンス―ル・ノーブルで、白タイツのプリンスのイメージを抱いているファンがほとんどのはず。マチューは矛盾に満ちた「人間的な」オネーギンを踊ることを心から楽しみにしていて、記者会見でも意欲満々だった。意地悪なマチュー…それはどういうものだろう。彼には優しいイメージしかない私である。オペラ座の先輩だったマニュエル・ルグリは「ナチュラル・ボーン・オネーギン」で頻繁にオネーギンを踊っていたから、後輩のマチューに色々役の極意を伝授していたかも知れない。ちゃんとしたワルを演じられるだろうか…映画『ブラックスワン』的な戦慄が走る。
フリーデマンもマチューも、心の中に物凄く危うくてエキセントリックなものを隠し持っているという印象がある。これから渋く年を重ねて、今まで見せてこなかった「裏キャラ」をどんどん披露してくれるのではないか。今年の夏に開催された『世界バレエ・フェスティバル』の「ファニー・ガラ」で、マチューはオーロラの母を演じ、フリーデマンは巨大なキティちゃんの平たいかぶりものをかぶって「長靴を履いた猫」を踊った。どちらも本当に輝いていた。王子のコスチュームからはみ出た糸を引っ張ってみたら、たちまち悪魔の衣装に変わってしまった…そんな手品のような世界を見せてくれるかも。『オネーギン』好きの私は、もちろん両キャスト観に行きます。
【特集コラム】小田島久恵の“バレエって素敵”
一度はまったら抜けられないバレエの魔力について、夢やエロスを交えながら語っていく「小田島久恵の“バレエって素敵”」。ぜひあなたもその魔力に憑りつかれてみては?
筆者プロフィール
小田島久恵/音楽・舞踊ライター
10代でジョルジュ・ドンの魅力に痺れ、ベジャールとクラシック・バレエにはまっていく。大学では美術を専攻し、バレエとパフォーミングアーツについての卒論を書く。
ロック雑誌『ロッキング・オン』の編集部に就職した後も、国内外のバレエ公演に出没。
パリ・オペラ座バレエ、英国ロイヤル・バレエ、ハンブルク・バレエ団、アメリカン・バレエ・シアタ―、ボリショイ・バレエ、マリインスキー・バレエがお気に入り。
一度はまったら抜けられないバレエの魔力について、夢やエロスを交えながら語っていきます。