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【特集】ローマ歌劇場2018年日本公演『椿姫』『マノン・レスコー』を100倍楽しむ方法

【特集】ローマ歌劇場「椿姫」「マノン・レスコー」を100倍楽しむ方法

★目次★

その① 理性的なヒロインの悲劇 こちら

その② 椿姫とヴァレンティノ こちら

文/小田島久恵


 

その① ★理性的なヒロインの悲劇★

アルフォンス・ミュシャ「椿姫」
アルフォンス・ミュシャ「椿姫」

ヴェルディ39歳のときの傑作『椿姫』は、原題を「ラ・トラヴィアータ」“道を踏み外した女”という。結核で死んでしまう高級娼婦が主人公の悲恋オペラは、ヴェルディが『La dam aux Camelias(椿をつけた貴婦人)』(※注1)の芝居を見て感動したことが作曲の動機になっているが、一度オペラを見てしまうと原作の小説はそれほど面白くはない。小説の筆者は自分が実際に惚れた美人の娼婦を理想化し、彼女に夢中になる青年に自己投影して、話全体を甘ったるくてセンティメンタルなものにしているが、ヴェルディはもっと俯瞰的にこの物語をみていたと思う。ここに夢物語はない。民俗学者でオペラ愛好家であったミシェル・レリスは『椿姫』を「歴史で最初のヴェリズモ(リアリズム)・オペラ」と位置付けている。

パリで華やかな愛人生活を享受するヴィオレッタは、青年貴族アルフレードに愛を告白され、虚飾に満ちた生活を捨てて、彼と一緒になろうとする。財産を売って田舎暮らしを始めるが、そこにアルフレードのお父さんジョルジュがやってきて、わが一家のために息子と別れてくれとヴィオレッタに懇願。それぞれの言い分を語り合い、最終的にヴィオレッタは別れを決意する。分別のある彼女は、恋人のお父さんがふりかざす「常識」を受け入れ、自分は愛するアルフレードと一緒にいてはならないと自覚するのだ。

それまでのオペラ・ヒロインと比べて、このヴィオレッタは相当頭がいい。腹黒さによって頭の良さを発揮するマクベス夫人タイプでもない。オペラでは恋は万能の狂気だ。どんな外敵とも戦って、強行突破して成就をはかるのが筋というもの。しかし、ヴィオレッタは「すべては遅すぎ、自分の生き方はすでに道を外れすぎてきた」ということを自覚する。現実を見ることができる知性があるのだ。とはいえ、華やかなパリの生活を捨てて田舎に来たのに、ここで肝心の愛まで諦めたら、彼女に残るのは貧困と病だけである。

音楽の華麗さに反比例して、『椿姫』はとても痛い、苦しい、つらい物語である。ヴェルディがすごいのは、嫉妬に血迷ったアルフレードをとことんおバカさんに描いていること。自分のお父さんの説得によって身を引いた恋人に、アルフレードは「金を使わせて悪かったな!」とみんながいる前で札束を投げつける。そのときのヴィオレッタの歌詞がすごいのだ。「アルフレード、この心はあなたでいっぱいなのよ」。…これは相手に聴かせるためではなく、モノローグのように歌われる。とても切ない、切なすぎるシーンである。

ギリシア出身のソプラノ歌手、ディミトラ・テオドッシュウが『椿姫』のリハーサルをしていたとき、一緒についてきた彼女の息子さんは、この札束のシーンでアルフレード役のテノール歌手に「お母さんになんて失礼なことをするんだ!お母さんにあやまれ!」と叫んで、全員を絶句させてしまったという。子供は恐ろしいほど正直だ。実際、夢のようなシーンより、臓腑がちぎれるようなつらいシーンのほうが『椿姫』には多い。最後は文無しになって、医者からも見放され、うわごとを言いながら息絶えていくヒロイン…渡る世間は鬼ばかりである。

美しい歌手の声、美しいアリア、美しいオーケストラに美しい美術があるから、こんな話をわざわざ見たいと思ってしまう。見終わった後は涙を拭きながら「ああ、面白かった」とつぶやいてしまう。まさにオペラの醍醐味である。

※注1:アレクサンドル・デュマの息子(デュマ・フィス)による小説

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その② ★椿姫とヴァレンティノ★

「椿姫」
『ソフィア・コッポラの椿姫』第2幕 フローラの館での宴 Photo ©Yasuko Kageyama/TOR

女性の着道楽には様々な種類がいて、ある一定年齢に達すると和装に走る人もいれば、「洋」の趣味を究めていく人もいる。ブランド好きを公言するのはあまりいい趣味ではないのだが、筆者自身は後者のタイプで、20代後半から様々な高級海外ブランドにはまってきた。親兄弟はこのことを由々しい事態ととらえている。その理由は「ファッションなんかにうつつを抜かさなければマンションのひとつくらいは買えただろうに」という、実に理にかなったものである。

何を言いたいかというと、ローマ歌劇場の『椿姫』の衣装を担当したのがヴァレンティノ・ガラヴァーニ(1932~)であることの重要性だ。ローマを拠点とするこのハイエンド・ブランド、既にヴァレンティノ氏は引退をして別のデザイナーが引き継いでいるが、ブランド・ヒエラルキーの中でもハイエンドの中のハイエンドで、世界観全体がどこか浮世離れしたものを背負っている。着道楽が最終的に行き着く「天国」のような「地獄」のような場所がここで、ヴァレンティノの魔力に捕えられたら最後、あとは破産を覚悟してこの世界に心酔し続けるしかないのだ。私も最後はここに来てしまった…素材、デザイン、色彩…すべてが究極もので、もう他のブランドには興味が湧かない。

先に映画で公開されたローマ歌劇場の『椿姫』は、カーテンコール時に演出のソフィア・コッポラよりヴァレンティノ・ガラヴァーニが恭しげに盛大な拍手をもって迎えられていたことから、このプロダクションで衣装がいかに大きな地位を占めているかがわかるというもの。ドゥミ・モンド(高級娼婦)のドレスをヴァレンティノがデザインするというのも、なかなか小粋なものがあった。「上品」で「貴族的」でイタリアブランドの中でもセックスアピールの少ないヴァレンティノのデザインの本質には、蠱惑的で「男を破滅させるほどの魅力」が潜んでいたからだ。劇中でヴィオレッタが見せる装いは、ヴァレンティノ・デザインのいくつかのクリシェが使われていて、実際の商品を求めたことがある人にはすぐにわかる目印がいくつもある。ちょっとエキセントリックで華美で、浮世離れした色彩やモティーフが重ねられているのだ。


「椿姫」
『ソフィア・コッポラの椿姫』第1幕 ヴィオレッタの家の広間 Photo ©Yasuko Kageyama/TOR

『椿姫』の背景になっているのは、中産階級から破格の財力をもつ新興勢力が台頭し、娼婦との自由恋愛が一種の「酔狂」として認められていた時代だ(この時代の特殊性はジャン・スタロビンスキー著『自由の創出』≪白水社≫ に詳しい)。恋愛と浪費生活が不思議な均衡によって結びつき、割れた茶碗と一国の一城が取引されるようなギャンブルが「美」とされたのだ。そんな時代のオペラに、ヴァレンティノのドレスほどふさわしいものはない。オペラもファッションも、現実の重みを忘れさせ、ひとときの夢を見せてくれる。来日公演のおりには、一張羅のヴァレンティノを着ていそいそと出かけようと思っている筆者である(因みにセカンド・ブランドの「RED VARENTINO」はリーズナブル価格でヴァレンティノのエッセンスを味わえるブランドです。メーカーの回し者ではありません)。

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筆者プロフィール

小田島久恵

小田島久恵
音楽・舞踊ライター。
クラシック、オペラ、バレエ、演劇をメインに指揮者、演奏家、ダンサー、振付家、オペラ演出家にインタビューを行っている。ほぼ毎日、東京で行われるオーケストラ公演とリサイタルに出没しています。
著作に『オペラティック! 女子的オペラ鑑賞のススメ』(フィルムアート社)

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