クラシック

【インタビュー】長富彩│ピアノ・リサイタル ーイスラメイー

【インタビュー】長富彩

【インタビュー】長富彩

2010年にアルバム『イスラメイ』(COCQ-84825)で鮮烈なデビューを果たしたピアニスト、長富彩。1912年製のニューヨーク・スタインウェイCD368を奏でた「原点」ともいうべき1枚から十余年の時を経て、2024年10月11日(金)東京・銀座のヤマハホールにて、長富は再び「イスラメイ」と題したリサイタルに臨む。「新たな気持ちで自分の音楽のルーツであるロシア音楽に取り組みたい」、そして「ラフマニノフという場所から離れて挑戦をし、新たな世界と向き合いたい」という二つの想いが重なって生まれたという充実のオール・ロシアン・プログラムについて、じっくりと話を聞いた。


◆胸を抉るロシアの音楽

――今回のリサイタルは「イスラメイ」と題されていますね。「ロシア五人組(力強い集団)」の中心的存在として活躍したミリイ・バラキレフの東洋風幻想曲《イスラメイ》は、長富さんのデビュー・アルバムの表題曲でしたね

デビューから10数年が経った今、改めて《イスラメイ》を演奏したらどんなふうに生まれ変わるのだろうと思って、この曲を弾くことに決めました。
私にとってロシア音楽は「自分の心を語ってくれる存在」なんです。例えば高校生の頃、失恋をしてご飯も喉を通らないような状態になっていたときに、ラフマニノフの《ピアノ・ソナタ第2番》を弾いたら感情がものすごく溢れてきて。辛い想いをぶつけたときに、ロシア音楽が一番寄り添って、私の気持ちを言語化してくれるんです。もしかすると、ロシア音楽には胸を抉るような曲が多い、ということも理由の一つかもしれません。
声楽家の父がレコードをたくさん持っていたこともあり、私は母の胎内にいるときからずっとロシアの曲を聞いてきました。まさにロシア音楽とともに人生を歩んできたわけですが、では何を演奏してきたのかと考えてみると、ラフマニノフやチャイコフスキーの曲を弾くことが多かったのですよね。ロシアには他にもたくさんの魅力的な作品があるのに、それらと向き合ったことがないなと気づいたんです。そこで、今回は私にとっての「ルーツ」であるロシア音楽とまた一から向き合ってみようと思い、原点である《イスラメイ》を中心としたオール・ロシアン・プログラムを組むことにしたんです。


――ロシアの音楽に胸を抉られるのはどうしてでしょう?

やはり、作品が書かれた国や地域の「空気」が音楽に反映されているのだと思います。私は2度ロシアを訪れたことがあるのですが、空港全体が薄暗くて、少し怖いなと感じました。空も、晴れていてもどこか物寂しい。そういった部分が音楽にも表れているように思います。
加えて、ロシアの音楽にはある種の「しつこさ」があるんです。他の国の音楽のように「ちょっと切ないメロディーが出てくるけれど、少しすると道が開ける」という感じではなくて、切ない部分をひたすらに重ねてくる。だから、抉られるんですよね。


◆大平原に想いを馳せて

――今回、改めて《イスラメイ》と向き合ってみていかがですか?

昔からこだわりは強く持って演奏するタイプだったので、この曲をどう弾くかというような核心の部分は変わっていないと思います。当時の解釈にプラスされるところはあると思うのですが、本質的なところは大きくは変わりません。
ただ、当時はメディアなどで「超絶技巧」のピアニストと表現していただくことが多かったのですが、じつは私自身はそうは思っていないんです。SNSにも書いたのですが、かなり苦労してテクニックを身に着けていくタイプなのですよね。毎回死にそうな思いをして、色々な策を練って本番にたどり着いているので、そうした技術面で感じるプレッシャーは大きくて……。その意味では、10年経った今の目線で振り返ると、以前の私は《イスラメイ》という曲をいかに格好よく、完璧に弾けるかというテクニック面に目が向いてしまっていた印象はありますね。もちろん当時も音楽的表現をできるようにと思ってはいたのですが。
今はこの《イスラメイ》に対して、純粋に、とても面白い曲だなと感じています。単旋律で始まって、リズムもどこかつかみどころがなくて。私はこの曲をモンゴルの広い大地を想像しながら弾いているんです。『スーホの白い馬』のお話がありますよね。そうした世界観がぱっと浮かんでくるんです。今回のプログラムの中では、この曲はかなり異質な作品ですから、そこだけ「異空間」にできたらいいなと思いながら取り組んでいます。


長富彩

◆明るくも切ない《グランド・ソナタ》

――SNS(Instagram:@nagatomiaya)で練習風景も投稿していらっしゃいましたが、今回はムソルグスキー《展覧会の絵》とチャイコフスキー《グランド・ソナタ》という二つの大曲が演奏される豪華なプログラムですね

オール・ロシアン・プログラムにしようと決めたとき、ムソルグスキーの《展覧会の絵》は迷わず選曲したのですが、チャイコフスキーの《グランド・ソナタ》はそうではなかったんです。じつは、当初は「ロシア五人組」の作品に絞るか、あるいはラフマニノフの曲も弾こうと考えていました。
ただ、リサイタルに向けての話し合いをする中で「《グランド・ソナタ》が似合いそうだね」と仰ってくださった方がいたんです。やはり自分一人でプログラムを考えると、必然的に得意な曲や好きな曲を演奏することが多くなるわけですが、私は演奏会は色々な方と一緒に作り上げていくものだと考えていて。過去にも、自分の演奏をよく聴いてくれている友人から「この曲合うと思うな」と言ってもらった曲を弾いてみたら、その曲にとりつかれてしまったなんてことが何度かあったんです。今回もまさにそのパターンでした。
やはりチャイコフスキーといえば、コンチェルトや《四季》のようなメジャーな曲の印象が強く、《グランド・ソナタ》はほとんど聴いてこなかったのですよね。子どもの頃はあまり惹かれなくて、そのまま大きくなって。そんな私の目を覚ましてくれた一言でした。
冒頭から堂々とした和音が鳴り響く作品なのですが、長調の明るい和音が鳴っているのにどこか寂しくて、切ない。ロシア音楽ならではの心を抉ってくる「切なさ」が、楽譜の最初の1頁で既に語り尽くされているように感じられました。そして、そのままとりつかれたように全楽章を聴いて「プログラムの最後にこれを弾きたい!」と思ったんです。


◆「表現者」として挑む《展覧会の絵》

――ムソルグスキー《展覧会の絵》は迷いなく選ばれたとのことですが、それはなぜでしょう?

この組曲は〈バーバ・ヤガー〉や〈キエフ(キーウ)の大門〉のように、1曲1曲に「こういう絵を表現したものです」というタイトルがついていますよね。ムソルグスキーが画家ヴィクトル・ハルトマンの死を悲しみつつ、遺作展を訪れたときの様子を描いた作品なのですが、いかにそうした場面にいるように、本当にその絵が見えてくるように演奏できるか、というところに演奏家としての喜びを感じるんです。私はそういった「表現」をするのが大好きなんですよね。ですから、この曲は私にとっての大好物で、自分を試す場でもあり、また表現者としての幸せを感じられる作品でもあるんです。


――一方で、ミハイル・グリンカ(バラキレフ編)〈ひばり〉などの魅力的な小品も演奏されますね。これは「近代ロシア音楽の父」として知られるグリンカの歌曲集《ペテルブルクへの別れ》の第10曲をバラキレフが華麗にアレンジした作品です。長富さんのデビュー盤にも収録されていますが、やはりお気に入りの1曲なのでしょうか?

はい。《展覧会の絵》や《イスラメイ》はリサイタルではそれほど多く演奏していないのですが、〈ひばり〉はよく弾いていますし、やはり得意とする分野の曲なのですよね。いかにひばりのさえずりを聴かせるか。演奏していると、やりたい表現がどんどん溢れてくるんです。そうした点に気持ちを集中して、浸ることができる、私にとって貴重な作品の一つです。


◆ショパン作品を思わせるキュイの名品

――今回は「ロシア五人組」の作品をもう1曲、ツェーザリ・キュイ《アンプロンプチュ=カプリス》も演奏されますね。ショパンの作品を学び、生まれ故郷のヴィリニュスでポーランド人作曲家モニューシュコに学んだキュイの出自を思わせるロマンティックな小品です

この曲は「ロシア五人組」プログラムを弾こうかと考えて、キュイの作品を色々と漁っていたときに出会ったのですが、冒頭のフレーズに惹かれてしまって。それこそショパン的な、本当に美しい作品ですよね。途中、突拍子もなくショパンの《軍隊ポロネーズ》に似た部分が出てきて「ちょっと雰囲気にそぐわないのでは?」と感じたりもするんですけれど、でもやっぱり純粋に美しくて。これは絶対にコンサートの最初に弾くぞと決めたんです。


――大曲から小品まで、ロシアのピアノ音楽の様々な側面を愉しむことができる、まさに充実のプログラムですね

正直、自分でも「すごいプログラム作っちゃったな」と思っています。難易度などは度外視で組んでしまったので、本番数日前の自分はどうなっていることやら、と……(笑)。もちろん、格好いい曲は格好よく弾きたいと思うのですが、やはりそれ以上に「ロシアの空気」や「寂しさ」、そして、その寂しさの中にある「煌びやかさ」や「希望」――そういった音楽の深い部分を、プログラム全体を通して一篇の物語のように、それこそ展覧会を鑑賞するかのようにお聴きいただけたらと願っています。そのためにも音楽と精一杯向き合っていこうと思いますし、マイナーな作品については、その魅力をお伝えするためにもSNSなどでも発信していけたらと考えています。


――楽しみにしています!



取材・文/本田裕暉

【インタビュー】長富彩
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