「キースはあまりに純粋なまま亡くなった」美術ジャーナリスト村田真氏が語るキース・へリング
1980年代にアメリカのポップアートを牽引したキース・へリングの約150点の作品が揃う「キース・へリング展 アートをストリートへ」が2024年4月27日(土)~2024年6月23日(日)に兵庫県立美術館ギャラリー棟で開かれる。キースは1958年にアメリカのペンシルベニア州で生まれ、1980年代初頭にニューヨークの地下鉄駅構内で、使用されていない広告板に作品を描いた「サブウェイ・ドローイング」というプロジェクトで脚光を浴び、時代の寵児となった。そんなキースをニューヨークで密着取材したのは美術ジャーナリストの村田真氏。今展では村田氏がキースを撮った貴重な26点の写真も展示されている。村田氏が見たキース・へリングとはーー?
――1982年、当時ぴあで働いていた村田さんは、ぴあの矢内社長から「キース・へリングを取材しにニューヨークへ行ってほしい」と依頼されたそうですね。その時からキースの人気は日本でも高かったのですか。
雑誌などで紹介されてはいたんですが、そんなに一般的には知られていなかったですね。知る人ぞ知るでした。僕が最初に見た時は、子どもっぽい絵だなと、そんなにいい印象は持っていなかったんです。雑誌の表紙に使って特集すると聞いた時は、正直「大丈夫かな?」という思いもあったんですけど、ニューヨークに初めて行けるのはうれしかったですね(笑)。
――いいお仕事で羨ましいです(笑)。
当時のニューヨークはかなり面白かった時期で、ぐちゃぐちゃなエネルギーがあったし、危険なんですが、アートが動いていた時代でしたね。
――キースに会った時の印象はどうでしたか。
彼のスタジオで会ったんですが、意外にといったら失礼なんですけど、約束の時間通りに来て、真面目でしたね。もっと軽い感じの方だと思っていたので、だいぶ印象とは違っていました。インタビューも理路整然と自分の考えを述べていて説得力がありましたね。さすがニューヨークで生きているアメリカのアーティストだと。
――すごく真面目な方なのですか。
真面目ですね。純粋なんですよ。嘘や偽りがない人でしたね。
――村田さんが撮影された写真を拝見しても、とても繊細そうに見えますね。
24歳でしたが、子どもなんです(笑)。表情が子どもだなと思う瞬間があって、あどけないんですよね。
――どんなお話をされたのですか。
ペンシルベニア州で生まれて、ニューヨークに出てきて美術学校に行き、記号論やカリグラフィーに興味を持っていたと。どっちも彼の作品に共通していますよね。そこから線描を始めて、空間を埋め尽くすような感じのドローイングになり、シンプルに具体的な人の形を描くようになったという流れを語ってくれました。すごく印象に残ったのは、何で地下鉄に描くようになったか。美術館やギャラリーは限られた人しか見に来ない。来る人はいつも同じだと。それよりも不特定多数のなるべくたくさんの人に自分の作品を見てほしい。それで地下鉄を選んだと言っていました。
70年代のアートはすごく閉塞的で、限られた人しか理解できないような作品が競うようにあって、難解で社会から離れていくようなところがあったんです。そこで誰でも見られて、皆が楽しめるような作品を作るという彼の姿勢にはすごく共鳴しましたね。
――そのころのキースはニューヨークで個展ができるほどの知名度はあったのですよね?でもあえて、地下鉄を選んだということですね。
そうですね。82年にドイツでドクメンタという、世界の選ばれたアーティストが出展できる国際展にキースが出していたんです。そこに選ばれるということは世界中に認められているということ。僕はその時初めてヨーロッパに行って、ドクメンタ展を見て、キースが出していることを知ったんです。そのころからポップな作品を作っていたので、売れるようにもなっていました。
有名なポップで明るいスタイルは地下鉄で磨き上げたんですよ。警察に捕まってはいけないから、なるべく早く描き上げないといけない。以前は込み入った線描のドローイングをやっていましたが、どんどんシンプルに素早く描けるものになっていった。それがポスターやタブロー(板絵やキャンバス画)、版画、彫刻などに広がりました。彼のスタイルを確立したのはサブウェイ・ドローイングです。
――そのサブウェイ・ドローイングをしているところに村田さんは付いて行かれたそうですね。取材中に交渉されたのでしょうか。
特に打ち合わせをしたわけではないんですけど、付いて行っちゃいましたね(笑)。彼も別に拒まなかったです。全然、気を使ってくれないから。気を使ってくれるどころではないんですよ。サブウェイ・ドローイング中は、地下鉄も今とは違って危険だからすごく緊迫感があったんです。彼にとってはお巡りさんは敵ですから。僕にとってはお巡りさんがいないと困るんですけど(笑)。
――当時の地下鉄は本当に危なかったのでしょうね。
乗っている人も映画に出てくるような、それなりの人でした(笑)。それなりの人でないと乗らないんです。ニューヨークに行く前は、「夜に地下鉄に乗ったら殺される」「カメラをぶらさげていれば取られる」と言われていたんです。それなのに夜、一人でカメラをかついで、キースを追っかけて行かなきゃならないはめになった。
キースは地下鉄に乗っていて、電車がホームに乗り入れると、ホームの広告の黒い空きスペースがないか目を凝らして探しているんです。黒い空きスペースは本来は広告のポスターが貼ってあるんだけど、広告がない時は黒い紙が貼ってある。見つけたらドアの間から走っていって、ポケットから白いチョークを出して、その上にササっと描いて1、2分で仕上げる。また、地下鉄の広告の上に自分で作ったシールも貼ったりしているんです(笑)。
――1、2分しかかからないのですか。
だいたいそうですね。30秒ぐらいの時もあったんじゃないかな。見学している人と話をしながら描く時もあって。
――そんな状況に立ち会っていらっしゃるなんて、ライター冥利に尽きますね。
描いている時は緊迫していて、絶対に邪魔できない状況でした。描き終わったら、パッと自分の作品を見ないで逃げるんですよ(笑)。そこを追っかけて行かなきゃならない。
――絵はどのぐらい残っているのですか。
場所によりますよね。すぐに剥されることもあれば、2、3日は持つこともある。一晩で3つか4つ描いていたような気がします。
――有名になると大勢の人だかりができて、中止になることもあったそうですね。
なるべく多くの人に見てもらいたからそこに描くことを望んだんですけど、すぐに剥がされてしまう。
――サブウェイ・ドローイング以外にも一緒に時間を過ごされたのですか。
スタジオや自宅、彼が行くところは全部付いて行きました。バッジ屋さんに自分のバッジを作ってもらうのも付き合って。キースは全部無料で配るんですよね。
――売れるのが分かっていてもですか。
そうです。ぴあで表紙にして読者用にプレゼントしたいから「何個か売ってくれないか」と交渉したら、「いや、これは売れない。皆に配るために作っているから」と言い、お金には無関心な人でしたね。ソーホーかどこかの大きなスタジオを借りて制作していましたね。
――ほかにはどういう作品を作っていましたか?
あまりキャンバスには描いていなくて、ターポリンに描いていましたね。そのころの作風はポップな感じで、初期以外は10年間、スタイルはほとんど変わっていないと思うんです。
――社会的な作品を描き出したのは、キースがHIVに感染してからなのでしょうか。
僕が行ったころは、そういう社会的な作品は描いていなかったんです。そのころエイズという概念もなく、反戦や反核運動にはすごく興味を持っていました。また、彼自身がゲイだったので、差別に対しては非常に敏感だったのは覚えていますね。
――村田さんとのインタビューでもゲイであることを話していましたか。キースはカミングアウトしていましたが、当時はまだまだカミングアウトする人は少なかったと思います。
いえ、自宅に行ったら彼氏がいるので分かるんです。部屋の中にテントを張って、そこで彼と暮らしていました(笑)。
――自宅にも自分の作品が飾ってあるのですか?
そうですね。あちこちに落書きがあり、冷蔵庫にもびっしり描かれていました。スタジオでほとんど制作して、自宅ではあまり描いている姿は見たことがなかったんですよね。
――一週間もキースと一緒に過ごす中で見えた彼の人柄は?おっしゃったように真面目で純粋でしょうか。
そうですね。子どもがそのまま大人になったような感じではありましたね。純粋という言葉はあまり使いたくないのですが、純粋でした(笑)。
――何か印象に残っているエピソードはありますか。
滞在中、危険な目には遭わなかったんですよ。ポリスにも追われなかった。もし、追われていたら面白いエピソードを語れるんだけど。残念ながらあまりないです(笑)。
――当時のニューヨークで危険な目に遭わなかったというのが幸運でしたね。
街全体がグラフィティだらけで、すごい所でしたね。一番、グラフィティの芸術が盛んで、地下鉄の車両の中もそうだけど、車体自体がキャンバスみたいに絵で覆われていたんです。違法なのですぐに消されるんだけど、また描かれる。夜中に忍び込んで描くから車両の上を走って逃げたりして何人もアーティストが死んでいるんですよ。命がけで作品を作っていましたね。覚悟が違うし、帰国して取材で甘っちょろいアーティストの話を聞いていたら頭にきました(笑)。
――(笑)。そのころジャン=ミシェル・バスキアやアンディ・ウォーホルも大活躍している時代でしたね。
バスキアとはアーティストの個展で会ったことがあるんです。女の子を連れてすごくカッコよかったですね(笑)
――キースはその後、日本にも何回か来日していますが、会われましたか?
初来日の時に会っていますね。でも、皆でお店にいる最中に、あるトラブルが起こってゴタゴタして大変だったんです。その間、キースはひたすらドローイングしていました(笑)。
――村田さんが取材をしてから8年後に、31歳の若さでキースはエイズが原因で亡くなってしまいます。
アート界はゲイの方が多くて、そのころはエイズで亡くなる人も多かったです。彼はいつ自分がエイズになったのか、いつ死ぬのか知っていたのかは知らないけど、覚悟はしていたんじゃないでしょうか。覚悟がなければ、サブウェイ・ドローイングなんてしないでしょう。
――生き急いでいた。
結果論かもしれないけど、生き急いでいたという言葉は言い当てているなと思いますね。
――自分の作品が現在まで残るとは思っていなかったのでしょうか。
自分の作品を残そうという意志はあまりなかったと思います。だからグラフティをやっていたし、あまりそういうことには興味や関心がなかった。多くの人に見てもらって楽しんでもらう、それが一番。その上で社会的なメッセージを発せられれば、それで良かったんでしょう。
――先に東京で開かれた今展はどう思われましたか。
僕自身、一番関心があるのはサブウェイ・ドローイングと学生時代に制作した性器を描いた作品2点です。まだキース・へリングのスタイルが確立されていない時代で、僕にとっての興味はそこなんです。そこが原点で、原点にアーティストの意匠が秘められていると思うんです。キースと言えば、明るくてポップな作品が有名なんですけど、学生時代は暗い、陰鬱な作品を描いていたというのが分かるだけでもいいと思うんですよ。色んな深みのある作品を作っていたというのを知ってもらいたいですね。
――最後に、キースはバンクシーを含め、現代アートにどのような影響を与えたと思われますか。
バンクシーはキースから学んではいますが、絵としては直接的な影響は受けていないと思います。でも同じ道というか、同じジレンマに陥っている。多くの人に見てもらうつもりで描いているのに、商品化されたり、私物化されたりして、それはキースが40年前に陥ったジレンマかもしれない。二人とも社会的なことに対するメッセージとしてグラフィティという手段を選んでいますが、それが逆に資本主義にのみ込まれつつある。そこに直面せざるを得ないというのが現代なんだなと感じます。バンクシーはそういう状況をむしろ楽しんでいて、それを逆手にとってさらに上に行こうとしていると思います。キースがもっと生きていたら、バンクシーみたいにもっと狡猾になっていたかもしれない。それは分からないですけど、キースはあまりに純粋なまま亡くなりましたね。
取材・文 米満ゆう子