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【記事】マリー・ローランサンとモード展

マリー・ローランサン

シャネルとローランサン、相容れない者同士の和解

京都市京セラ美術館で6月11日(日)まで開催中の「マリー・ローランサンとモード 1920年代パリ、女性たちは羽ばたいたーココ・シャネル、マドレーヌ・ヴィオネも活躍」は、女性が社会進出を果たした1920年代のパリを舞台にした意欲的な展覧会だ。本展覧会の監修者で、フランス文化財専門官、服飾史家のカトリーヌ・オルメン氏の解説を紹介する。

1883年に生まれたマリー・ローランサンとガブリエル・シャネル。二人はほとんど接触する機会はなく、互いを評価することはなかった。唯一の接点とも言えるのが《マドモアゼル・シャネルの肖像》だが、シャネルはローランサンに自らの肖像画を注文しておきながら拒み、ローランサンは加筆して画商に売り払ってしまった。



帽子デザイナーから女性企業家へ

ガブリエル・シャネルのキャリアのスタートは帽子を作ったことだった。それは生活費を稼いで自立するすべであり、男性に養ってもらっている状態から抜け出すためであった。彼女は美しく、男性たちを虜にした。そのまま贅沢な暮らしを続けようと思えば続けられた。「ココ」と呼ばれるようになった彼女は、自らの将来の道を別の方向に切り拓きたいと考えていた。第一次世界大戦前は、女性のこのような独立志向は稀であり、ましてやかつて孤児院にいた若い女性で、全く蓄えもなかったのだからなおさらであった。


ガブリエル・シャネル《帽子》1910年代 シルクベルベット 神戸ファッション美術館


1909年のパリのマルゼルブ大通りで彼女はまず帽子を売り始めた。パリのど真ん中、ニュースは口コミで着実に広まった。そして、たちまちのうちに本格的な店を構えることになる。女優、芸人、踊り子、歌手をしていた女友達が、シャネルが手掛けたものを宣伝してくれた。第一次大戦以前は帽子が最も重要なものであった。その証拠にマリー・ローランサンが描く肖像画の女性は帽子をかぶっている!


マリー・ローランサン《ピンクのコートを着たグールゴー男爵夫人の肖像》1923年頃 油彩/キャンヴァス パリ、ポンピドゥー・センター 


帽子は装いの決め手であり、エレガンスのかなめだった。帽子には羽根などの装飾が施され、あまりにも大きくなり、劇場でかぶることが禁止されたほどだった。シャネルが生み出した帽子は違った。それはまさに求められているものだった。


ホルスト・P・ホルスト≪ココ・シャネル≫1937年 神戸ファッション美術館


第一次大戦が勃発したとき、シャネルは既に名を成していた。ジャージー素材で仕立てたスーツはジャーナリストたちの炯眼に触れぬわけがなかった。ゆったりとして、しなやかで、シンプルで、落ち着いた色合い、そしてスカートは歩きやすかった。このスーツはコルセットなしで着るのかどうかを確認するなどもはや無意味なことだった。戦争が終わったとき、お針子は申し分のない女性企業家になっていた。


左)ガブリエル・シャネル《デイ・ドレス》1927年頃 シルククレープ 神戸ファッション美術館
右)ガブリエル・シャネル《イブニング・ドレス》1920-21年、ベルベット、桜アンティキテ


シャネル N°5の誕生

シャネルはロシア皇帝の宮廷で調香師として働いたことがあるエルネスト・ボーと知り合う。二人は画期的なものを創造することで一致した。「女性の香りがする女性の香水」である。求めるのは爽やかな香りの香水、北極圏の端を散歩しているような気分の香水。ボーが提示した試作品の中でシャネルが選んだのが5番と記されたものだったと言われている。八角形のカットグラスのストッパーがついた幾何学的な長方形のボトルに入れられ、それはアールデコの路線とも完璧に合致していた。シャネル N°5の誕生である。


マリー・ローランサンの画風

今日、マリー・ローランサンの作品は公共あるいは個人のコレクションの中に散在する。この画家を取り上げた展覧会も世界中で行われている。そしてその画風は、一目でそれと分かる。主に女性を描いた肖像画は詩情にあふれ、軽やかさの極みに達している。帽子、衣服、アクセサリーはごくあっさりと描かれるだけである。モデルたちの肌のように透き通った絵。パステル調の淡彩は消え入りそうなのだが、黒い筆致で調子を付けられ、それをローランサンは生涯に亘って描きつづけた。そしてそれは後世の人の目に焼き付いた。



ガブリエル・シャネルのスタイルもまたそれとすぐ判り、いつ作られたものでも、どこに紛れても見分けがつく。その作風はシャープで、無駄がなく、実用的でいて時に突飛なものもある。しかし、マリー・ローランサンとは反対に、ガブリエル・シャネルの作品は今日も生み出されている。それはカール・ラガーフェルドが1983年から2019年に他界するまで、シャネルというブランドのチーフ・デザイナーを務めあげたことによる。そしてそれ以降は、カールの「右腕」のヴィルジニー・ヴィアールがブランドの旗手を受け継いだ。ローランサンは活動を閉じたが、シャネルの創作は成長を続けている。


(中央)カール・ラガーフェルド、シャネル 黒いサテンのリボンの付いたピンクのフェイユ・ドレス 2011年 春夏オートクチュールコレクションより ©CHANEL


ローランサンとシャネルの融合

カール・ラガーフェルドはマドモアゼル・シャネルから受け継いだクリエイティブな遺産を否定することなしに、マリー・ローランサンが使った色彩から何度かインスピレーションを受けたようである。ピンク、淡いグレー、水色、そして黒い筆致。これだけでローランサンの作品を想起させるのだが、シャネル社が常用する色調(黒、白、ベージュ、赤、金)とはかなり違う色合いであった。ローランサンの巧妙で透明感のある色彩は、2009年の春夏プレタポルテ・コレクションに登場した。その2年後、2011年春夏オートクチュール・コレクションにあたって、この引用は更に明らかとなる。カール・ラガーフェルドはローランサンの色使いから着想を得たことを公言するのだが、正確には参考にしたのは画家の初期の色調で、その特徴は「ピンク、消え入るような淡いグレー、そしてもっと抑えた筆致で、更に黒の点も加わった」ものであった。実際、コレクション全体は非常に巧妙で明るい単色でまとめられ、信じられないほどの軽やかさを獲得している。生地と色彩はほとんど消え去ってしまいそうで、しかもモデルたちは最高に洗練されていた。その時の靴はフラットシューズで、飛び跳ねるようなウォークを可能にし、このコレクションは重さを持たない印象を与え、それはまさにローランサンの描く人物像のイメージであった。



モードは無からは生まれない。モードは時代の精神や歴史、あるいは異国趣味を糧にしているのである。1980年代からポストモダンはこうした借用を正当化してきた。それらは増殖し、層を成し、混じり合っていった。それらはときには明らかに引用であるが、ブランドのDNAと呼ぶに相応しいものとして迎え入れられた。

こうした「引用」は現存するアーティストとのコラボレーションと同じことであり、クリエーターの想像力を刺激し、豊かさを与え、そして留まることのない刷新をもたらす。それはモードの神髄にほかならない。つまり様々な引用の働きこそが、モードの担い手を相容れないものとの和解に至らしめるのである。


本展図録からの文章抜粋
(フランス文化財専門官、服飾史家:カトリーヌ・オルメン/訳:宮澤政男)


本展では、2011年春夏オートクチュール・コレクションの映像を上映し、モデルに囲まれたカール・ラガーフェルドの姿を見ることもできる。ローランサンとシャネルの融合を21世紀の京都で目撃してほしい。

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