【2025/5/10(土) 東京・東京文化会館 大ホール】開催
宙を泳ぐ白鳥たちと、
心優しき王子に出会う
バレエ『白鳥の湖』を観たことがない人も、主役のバレリーナは白鳥と黒鳥の二役を踊る、ということはなんとなく知っているのではないだろうか。
白鳥=オデットは、白鳥に変身させられ、湖に囚われている清純無垢な姫。黒鳥=オディールは王子を誘惑する小悪魔。性格は真逆だが、どちらも「鳥」だ。重力に反して高くジャンプし、トウシューズで立って地上から約20センチの高さを滑るように移動できるバレエダンサーたちには、そもそも鳥のイメージがある。
今回は、K-BALLET TOKYO『白鳥の湖』スプリング・ツアーの初回公演を観た【5/10(土)12時半開演、東京文化会館大ホール】。この日、オデット・オディールを踊った日高世菜は、とてもスケールの大きな「鳥」だった。リフトされながら宙に漂う長い間、ジャンプの着地直前に見える鮮やかな弓なりの姿勢、流線型を長く引き伸ばしたような「アラベスク」のポーズでの、長い長いバランス……え、今のなんだったんだろう、と意識が宙吊りになる瞬間が不意打ちでくるから、目が離せない。
……と、勝手な感想を書いたが、ここからは、これから舞台を観る方のために、個人的に印象に残ったポイントをレポートしてみる。
K-BALLET TOKYO
以前、とあるバレエダンサーの方に『白鳥の湖』は、チャイコフスキーの音楽そのものが演劇の脚本のようだと聞いたことがある。冒頭で演奏される序曲だけを聞いていても、哀愁を帯びたメロディがしだいに不穏さを増していき、本当にドラマチックだ。熊川版では序曲の中に、オデットが巨大な翼をもつ悪魔ロットバルトにつかまり、白鳥に変身させられるプロローグが挿入される。
このロットバルトという役も不可思議な存在だ。演出によっては宮廷の影の権力者とか、王子を精神的に支配する教師といった解釈が加わることがあるが、熊川版では、ふくろうの姿をした悪魔というだけで特に現実的な設定は付け加えられていない。
この日ロットバルトを踊ったのは栗山廉。端正でのびやかなテクニックをもつ、王子役がよく似合うダンサーだが、今回のロットバルトもきわめてスケールが大きかった。ことさらに邪悪さを強調したり、迫力を出そうとしたりはしない。ただ、不可解な闇のようにふわっとそこにいるだけ。なぜ少女たちをさらって白鳥に変えてしまうのか、理由はよくわからない。白鳥たちを支配することは、彼にとって必然であり、悪ですらないのかもしれない。そこがかえって怖い。
K-BALLET TOKYO
さて、序曲が終わり、紗幕が上がると空気が一変する。1幕の舞台は、この国の王子の誕生日の宴だ。管楽器を多用したはなやかな音楽が鳴り響き、浮き立つようなメロディとともに登場するのが、王子の友人ベンノ(栗原柊)。ポーン!と打ち上げられるような気持のよいジャンプは、高いのに着地音がしない。王子の誕生日を祝う人々が弾むような群舞を繰り広げ、リフトされた女性たちのスカートがふんわりと宙を舞う。このシーンで踊っているのは普通の人々で鳥の役ではないけれど、皆本当に宙をよく泳ぐ。
K-BALLET TOKYO
圧巻は1幕最大の見せ場、パ・ド・トロワ(3人の踊り)だ。第2ヴァリエーション・武井隼人の、まるでトランポリンが下にあるようなジャンプも見事だったが、長尾美音による第1ヴァリエーション、岩井優花による第3ヴァリエーションの軽やかさは印象的だった。どちらもポアントワークを駆使した超絶技巧の踊りで、トウで立ったまま、デコルテから指先までしなやかに使い、まるでそよ風になぶられているようにくるくる体の方向を変えたりする。この後の日程でオデット・オディール役のデビューを果たす長尾と岩井は、大きなプレッシャーの中でリハーサルを重ねているに違いないが、このパ・ド・トロワでは、高い精度に仕上がった体を駆使して、自在に踊れることを楽しんでいるように見えた。
そして、この場の主役であるジークフリード王子を踊ったのは石橋奨也。石橋王子は、とてもまじめで誠実な人に見えた。現代でいえば、おそらく勉強もスポーツもよくできる優等生だろう。友人も多く皆に愛されているのに、実は孤独を感じているのかもしれない。登場後、さりげなく鳥かごの鳥をめでるシーンがあるが、彼は将来、王として国を治めなければならない、という運命に囚われているともいえる。王妃(戸田梨紗子)から、次の舞踏会で結婚相手を選ぶようにと言われ、顔をくもらせる王子。なんでも相談できるのは、王子を誰よりも理解し、強い母との間に立ってくれる、気のいい家庭教師(ビャンバ・バットボルド)だけのようだ。家庭教師やベンノとの打ち解けたやり取り、宮廷の女性たちと踊るときのていねいなサポートなど、身のこなし一つひとつに誠実さがあふれていて、目が離せない。
そして第2幕。その夜、友人たちと湖畔の森へ狩りに出かけた王子は、オデットと運命の出会いを果たす。オデットは美しいマイムで自身の身の上を語り、自分にかけられた呪いを解くことができるのは真実の愛のみ、と告げる。
望まぬ白鳥の姿に変えられ、自由を奪われているオデットは、おそらく深く傷ついている。二人のやり取りからは、ただ「おとぎ話の王子様とお姫様との出会い」というより、もっと深い共感による結びつきが感じられた。
オデットの腕は、翼のようにはばたく。王子はその翼をたたむように、オデットを背後からそっと抱きかかえる。「どうかもう、翼を休めてください」とでもいうように。おびえるオデットはその腕を何度も振りほどくが、王子は優しく、抱きかかえる動きを繰り返す。甘くせつない旋律とともに、二人の気持ちが通じ合うまでの過程がていねいに描かれる。
静謐な第2幕と打って変わり、第3幕、花嫁選びの舞踏会の場面ははなやかな見せ場の宝庫だ。冒頭からベンノの高速回転で度肝を抜かれる。6人の花嫁候補と王子の踊りも面白い。彼女たちの中から結婚相手を選びなさいと迫る母に、すでに運命の人と出会っている王子は強い拒否感を示す。でも、彼女たちに人として礼は尽くさなければと思っている様子で、一人ひとりへのサポートが、やはりとても丁寧なところが石橋王子らしい。
明るく弾むようなナポリ、濃厚な情熱を感じさせるチャルダッシュ、優雅で疾走感のあるマズルカなど各国の踊りが繰り広げられる中、高らかなファンファーレとともに、貴族に化けた悪魔ロットバルトと、オデットにそっくりな娘のオディールが乗り込んでくる。
日高は、プログラム掲載の座談会の中で、オディールを踊っているときは「解放」を感じると語っていたが、瞳を強く輝かせて、自由自在に王子の心を操る日高オディールは、最高に「悪い」。身体のラインが隅々まで魅惑的な曲線を描き、ヘンな言い方で恐縮だが、オペラグラスでなめるように見つめてしまった。
「ああ、オデットが来てくれた!」と狂喜する王子。絶妙のタイミングで煽情的なスペインの踊りが始まる。激しく踊るスペインのダンサーたちの中に、一瞬オディールが現れ、カッコよくポーズを決めたりする。そして、3幕最大の見せ場である王子とオディールのグラン・パ・ド・ドゥ。ロットバルトが、オディールの背後で、幾度もそっと耳打ちする。王子に効く誘惑の方法や魔力を授けているのかもしれない。そのたびに、日高オディールは、長い手足をのびやかに駆使しつつ、王子をだますのが楽しくてしかたない、とでもいうように微笑む。まるで全身が「うふふ」「くすっ」と微笑んでいるようだ。王子の腕を何度もふりほどくオデットと同じ動きが、ここでは「突き放しては誘う」ようなニュアンスを帯びる。
K-BALLET TOKYO
熱にうかされたように豪快なジャンプを見せる王子のソロも圧巻だった。もしかしたら、あのソロは「自分ははじめて、自分の意志で恋人を選んだ!これからは自分の運命は自分で切り開く!」という王子の叫びなのかもしれない。観客としては、だまされている王子が気の毒になってくる。その後の展開は、文字通り息もつかせない。
そして、最終幕。3幕との間に休憩はなく、つい先ほどまでオディールとして激しく踊っていた日高が、王子の裏切りに絶望したオデットとして現れる。小悪魔の面影はどこへやら、2幕以上に、悲しみに漂白されたピュアな存在に見えた。最終幕の美しさは熊川版の大きな特徴で、あらすじだけ紹介すれば「真実の愛によって悪魔ロットバルトは滅び、オデットと王子は天上で結ばれる」となるが――そこはぜひ劇場で体験してほしい。ロットバルトに立ち向かう白鳥たちのはばたきの力強さと、栗山ロットバルトの滅び方が悲しいまでに美しかった、とだけ書いておく。
カーテンコールに、王子とオデットの表情を残した石橋と日高が現れ、劇場は拍手に包まれた。その瞬間、同じ生身の身体をもちながら、鳥になれるバレエダンサーたちへの敬意と同時に、ふと浮かんだのは「あの悪いオディールはどこに消えたんだろう?」という妙な疑問であった。
熊川哲也芸術監督は、『白鳥の湖』は「奥深く、取り組むたびに発見があるバレエの原点」だと語っている。熊川版『白鳥の湖』には、その深みに分け入るための入り口が数えきれないほど用意されており、自分なりの入り口を発見することこそ、劇場に足を運ぶ楽しみといえるだろう。
※日高世菜の「高」の字は、(ハシゴダカ)が正式表記
「熊川哲也 K-BALLET TOKYO Spring Tour 2025「白鳥の湖」」公演情報│ローチケ[ローソンチケット]
取材・文/坂口香野
掲載日:2025年5月19日