ヴァイオリンの深みに、じっくりと包まれる。
名手ふたりが歌い響かせあう
ブラームスのヴァイオリン・ソナタ(全3曲)の世界
ヴァイオリンの濃く深い〈歌〉を味わい尽くす時間になるだろう。
――新日本フィルハーモニー交響楽団のコンサートマスターという重責を担いながら、ソロ・室内楽など幅広く活躍する名手・西江辰郎は、久石譲や上原ひろみなど広いジャンルの共演者たちからも信頼あついヴァイオリニストだ。
彼が今夏、東京では5年ぶりとなるリサイタルを開催する。その演目に選んだのは、ブラームスのヴァイオリン・ソナタ(全3曲)。
ロマン派の詩情にあふれたこの3曲は、派手な技巧をみせつけるというよりは、その〈歌〉の美しい陰翳、ピアノと共に渋くも深い〈響き〉の奥ゆきを堪能させ…聴きこむほどに、ヴァイオリンとピアノの対話の豊かさに呑まれてしまう、嘆息の傑作だ。
親しみやすいメロディ、しかし惹かれて包まれるうちに、奥深いなにかに触れてしまうような音世界。初めてのかたにも、ディープなヴァイオリン愛好家にも、一種特別な体験をさせてくれる作品たちだが、西江辰郎にとっても、このブラームスのヴァイオリン・ソナタ全3曲をまとめてリサイタルで弾くのは「実は、初めてなんです」というから、まさにファン待望の機会でもある。
「たまたま最近、新日本フィルのほうで、ブラームスの交響曲を[コンサートマスターとして]全曲演奏する機会がありました。そこであらためて、ひとりの作曲家に特化して、どっぷり深く入り込んでみるのもいい…と感じたんです。それに、私の演奏するブラームスのソナタを聴きたい、と仰って下さるかたに加え、ブラームスの音楽を愛する方々も想像以上に多くて、驚いています」
西江辰郎 ©Kazuhiko Suzuki
◆子どもの頃から憧れた、ソナタの深い世界へ
ブラームスのヴァイオリン・ソナタ、とりわけ第1番《雨の歌》は、西江辰郎にとっても思い入れの深い作品だという。
「日本においてヴァイオリンを習う人は、小さい子ども向けの曲から始めて、協奏曲、パガニーニなど弾いてからソナタ、という順番で習うことが多いと思うんです。若い子にソナタは早い、と言われていたものですから、私は逆にソナタが弾きたくて仕方なかった(笑)。中高生の頃から、やっとソナタに取り組むことができて、ブラームスの《雨の歌》も、安永徹先生[ベルリン・フィルのコンサートマスターも長年務めた名匠]や市野あゆみさん[ピアニスト]にレッスンを受けて、表現の難しさを身に染みて分かった作品でもあります」
聴き手にとっては、美しさや深さに包まれる幸せな体験でもあるソナタ全3曲。しかし演奏家にとっては、「お客様には見えないかも知れないけれども、地味なところで、いろいろな技術や曲に対するアプローチが難しい作品」だという。
「ヴァイオリンもですが、3曲ともにピアノがとても重要な作品です。それに、音楽に対して謙虚な面がないと、失われてしまうものがある。――作品に取り組んでゆくうえで、自分が曲から感じるものであったり、あるいは作曲家はこういうことが表現したいんだろうな…というものを踏まえた上で練習してゆくわけですけれども、そこになにか〈無駄な感情〉というか、建前、虚栄や邪念のようなものが一瞬でも見えてしまうと、なにか崩れてしまうものが、あるんです」
テクニックの錬磨だけでは到達できない、深く完成された音楽家同士の対話でしか味わえない、音楽。それが、ブラームスのヴァイオリン・ソナタの深い魅力だろう。
◆ピアノとヴァイオリン、錬磨と熟練を重ねて
ちなみに、私たちはつい〈ヴァイオリン・ソナタ〉と呼んでしまうけれど、そもそもこれは略…というあたりも実はポイントだ。
「ブラームスが作品につけた原題は〈ピアノとヴァイオリンのためのソナタ〉なんですね。ブラームスより少し前の時代にあった二重奏のソナタは、ピアノが主となって、ヴァイオリンがオブリガート[=助奏]的なものもありました。そこからベートーヴェン、そしてブラームスの時代にかけて、ヴァイオリンにも同等の協力関係が築かれ、二重奏として成立することになりました」
ブラームスの〈ヴァイオリン・ソナタ〉をお聴きいただくと、ヴァイオリンの豊かで深い表現に魅せられるのはもちろんのこと、決して〈伴奏〉にとどまらないピアノ、その重厚かつ繊細な表現が彫りこんでゆく、陰翳の深さにも気づかれることだろう。
「今回演奏するブラームスのソナタでも、やはりピアノは非常に重要。ですから、今回のリサイタルでは、ドイツ滞在も長かった岡田将さんと、また共演させていただけたら…と思いました」
岡田将(おかだ・まさる)は、長らくドイツを拠点にヨーロッパ各地で活躍してきたピアニスト。西江との共演では、2008年にライヴ録音されたCDで、他ならぬブラームスのヴァイオリン・ソナタ第3番を共演している。この録音、西江のヴァイオリンが奏で響かせる、緩急も絶妙な〈歌〉の深さはもちろん、岡田が厚くもしなやかに響かせるピアノとの、デュオの精妙な呼吸に驚かされ、ぐっと惹き込まれてゆく名演だった。
…あれから時を経て、錬磨と熟練を重ねて深みを増した二人による、ブラームスのソナタ全3曲の共演が実現するわけだ。
岡田将
◆ブラームスのソナタ3曲、その醍醐味
ソナタ全3曲でも、最も有名で人気も高いのは、第1番ト長調 作品78《雨の歌》だろうか。
このタイトルは、自作の歌曲《雨の歌》からテーマが引用されていることに由来する。ブラームス46歳、充実期の瑞々しい名作だが、そこには恩師シューマンの妻、名ピアニストでもあった親しいクララへの秘めた想いも織り込まれ…。
「第1番から第3番まで続けて弾いてみると、この第1番はある意味で、とても特殊な作品だと感じます。世の中に〈第1番〉と冠した作品を発表するにあたって、相当に悩み抜いたものがあるんだな、と感じるんです。もう出だしの部分、その最初のひとしずくから、どう演奏しようか…と思わせるものがある」
ゆっくりと親しみやすいメロディで始まる冒頭部分、そこに込められる万感の想いと、絶妙なニュアンス。その独特の緊張感と共に、ブラームスの〈声〉が響き出す瞬間もまた、全3曲を続けて聴くリサイタルでこそ体感したいものでもある。
「第2番のソナタは逆に、短期間で書かれた作品のような感覚があって、弾いていても、まとまりが素直という印象を受けます。そしてこの曲が書かれたスイスのトゥーンのように雄大な風景が広がります。さらに第3番は、全3曲の中でも特に、起承転結がはっきりして、構成が充実しているソナタだと思います。言葉では表現したくないような個人的な思いや事柄でさえ、音では語れるように、巧みにその情熱や思いといったものが込められていると感じます」
憧れの光も美しい、優美なソナタ第2番イ長調 作品100は、交響曲も第4番まで書き上げたあと、ブラームス53歳の作。同じ頃に着手されたソナタ第3番ニ短調 作品108は、推敲を重ねて2年後に完成…と、いずれも作曲家の語法がすっかり完成された、その語り口や組み立ての凄さまで味わい尽くせる傑作だ。
◆ブラームスならではの、渋くて豊かな世界へ!
「いろいろなヴァイオリン・ソナタがある中で、他の作曲家だったら、もう少し弦楽器的な要素が強い書きかたをするところでも、鍵盤楽器の奏者が考えるような発想が見えるのが、やはりブラームスだなぁ、と感じます(笑)」
踏み込んでお伺いしよう。
「ちょっと専門的なお話になってしまって恐縮ですが…、ブラームスの室内楽は、他の作曲家に比べても、ヴァイオリンの得意な高音よりも、中音域や低音域を巧みに活かした作品が多いんです。ソナタにも、ピアニスティックな発想から浮かぶ内声[多くの声部のなかで、目立つ高音のメロディや低音部ではなく、内側で響きを支える声部]が多い、という特徴があります」
それが、ブラームス独特の、ちょっと渋くて豊かな響きを生むわけだ。
「そのあたり、いろいろ組み合わされているものを、いかにスムーズに表現してゆくか…というのが凄く難しいんです。下手をするとつぎはぎだらけになってしまうところを、たとえばヴァイオリンがピアノに似せたり、あるいはピアノがヴァイオリンに似せたり、とお互いにつくり上げてゆく。そういったところが、このソナタの演奏では非常に重要になってくると思います。今回、岡田将さんとともに3曲の深い世界をあらためて掘り下げて、お客さまと一緒にブラームスの素敵な旅ができたらいいな、と思っています」
名手ふたりが極めゆく、ブラームスの音世界。これこそ、ライヴで体感したい音楽だろう。
取材・文/山野雄大
西江辰郎 ヴァイオリン・リサイタル 公演情報