クラシック

【インタビュー】古海行子│ピアノ・リサイタル2026 -RAVEL-

【インタビュー】古海行子│ピアノ・リサイタル2026 -RAVEL-

【インタビュー】古海行子

“現実の音”から“異世界”へ――古海行子が挑むラヴェル

ピアニストの古海行子(ふるみ・やすこ)は、2018年に高松国際ピアノコンクールで日本人として初優勝してからというもの、2022年のダブリン国際ピアノコンクール第2位をはじめ、国際的な舞台でその実力を披露してきた。現在はケルン音楽舞踊大学で研鑽を続ける彼女が、今年8月のリサイタルではモーリス・ラヴェルの作品を集中的に取り上げる。しかもピアノソロだけでなく、円熟期の傑作として名高いピアノ三重奏曲にも挑むという。何故いま、ラヴェルなのか?留学先での学びを入口に、現在の心境を聞いた。


――なぜ、留学先にドイツのケルンを選んだのでしょう?

理由はシンプルで、クラウディオ・マルティネス=メーナー先生に習いたかったからです。大学院を修了した後も、まだ誰かに師事して学ぶべきことがあると感じていたんですね。それで先生を探していた時期に、たまたまYouTubeでメーナー先生が弾くシューベルトと出会ったんです。自分が求めている音楽の方向性にとても近いものを感じたので、まずマスタークラスを受けに行って。それがすごく良かったので、迷うことなく、先生のもとで学ぶためにケルンに行こうと決めました。


――名教師として有名だったバシキーロフ(ダン・タイ・ソンやヴォロドスらの師)に習い、フェレンツ・ラドシュ(シフやコチシュの師)の薫陶も受けた先生だそうですね。どんなことを教わっていますか?

本当にあらゆることに興味をもっていらっしゃる先生です。そしてそれらの知識を音楽だけでなく、演奏するうえでの感覚と結びつける力が非常に優れた先生だと感じています。
私はもともと、直感や感覚で受け取ったものを、あとから言葉にして理解していくタイプでした。けれどもメーナー先生のレッスンでは、音楽の様式や作品背景に限らず、言語、文学、美術、身体感覚、時間や空間の捉え方まで、そうしたものを材料に、実際の音に結びつけてくださいます。知識から感覚へ戻していく回路を身につけることで、これまで偶然のように起こっていた音楽的な感覚を、より意識的に扱えるようになるのではないかと思っています。
もうひとり、メーナー先生のつながりでニーナ・ティヒマン先生にも教わっています。ティヒマン先生のレッスンでは今のところ、曲の解釈というよりも弾くこと、楽器を扱うこと、身体の使い方にフォーカスを当てていただいています。私が弾く上で困っていること、いま感じている問題を、一緒に考えながら紐解いてくださる先生です。先生は比較的手が小さい方で、その意味でも学びが多いですね。


――今回のリサイタルでフランスの作曲家ラヴェルを中心に据えたのは何故ですか?

これまで自然と、ショパンやシューマンなどのロマン派のなかでも初期にあたるレパートリーを数多く弾いてきました。個人の感情や内面的な動きが音楽と密接に結びついているところに、自分の感覚も自然に馴染むところがあったのだと思います。一方で、フランス音楽やもう少し後の時代の作品に取り組むときには、以前からどこか違和感のようなものも感じていました。
今年1月のリサイタルでは、ショパンからフランス音楽へ流れていくプログラムを組み、ドビュッシーの《夢》と《版画》、プーランクの《ナゼルの夜会》、ラヴェルの《ラ・ヴァルス》を取り上げました。その公演に向けて、メーナー先生のレッスンでそれらを見ていただいて、それまで漠然と感じていた違和感の正体がかなりはっきりしたんです。自分のなかに、フランス音楽や、ロマン派より後の時代の作品を弾くために必要な「回路」が、まだ十分にはできていないのだと気づきました。
ただ、それはフランス音楽だけの問題ではなく、どの音楽を演奏するうえでも作用してくるものだと思ったんです。そこに取り組むことは、これまで弾いてきたショパンやシューマンにも必ず返ってくるはずですし、音楽の核心にもう一歩近づくための手がかりになるのではないかと感じました。


――フランスものの中でも、ラヴェルに注力するのはどうしてなのでしょう?

1月に取り組んだ3人のフランスの作曲家のなかで、私から最も遠いところにいると感じたのがラヴェルだったからです。自分の美的感覚や、音楽に求めているものとはかなり違うところにいる作曲家だと感じています。私にとってラヴェルは本当に不思議な作曲家です。音がとても緻密で精巧に書き込まれていて、しかも作曲家として演奏家に求めることがほとんど楽譜に記されている。そこからはみ出る必要も多分ありません。


――言い換えれば、音符の行間を読むことが求められるロマン派的な「ファンタジー」〔≒詩情〕とは、ある意味では真逆ということですか。でも《鏡》なんかは、非常に幻想(ファンタジー)的な音楽でもありますよね?

私としては、「現実」的な音でいくら精密に描いても、浮かび上がってくる音楽は「現実」にとどまってしまうと考えていました。でもラヴェルの場合は、「現実」の音でも精密さを突き詰めて描き切ることで、その先にある現実とはかけ離れたファンタジーな世界、異世界感が初めて出てくる。それがラヴェルの特別な魅力ですし、そこに私も惹かれています。
これまで私は、音楽から生まれる感覚に入り込みながら弾いているところがありました。でもラヴェルでは、幻想的な世界のフィーリングを先取りしても、そこには到達できない。書かれた音や指示を精密に描き切ったあとに、初めてこちらの意識や感情が動かされる。そのような感覚が必要なのだと思います。精密に描かれた音の先に、どこまでファンタジー的な感覚が立ち上がるのか。そこに注目していただけたらと思っています。


――なるほど。出てくる音楽からファンタジーが感じられても、演奏者のアプローチ自体がファンタジックなわけではないのですね。《鏡》の前には、《ボロディン風に》《シャブリエ風に》《水の戯れ》という、ちょっと変わった組み合わせが並んでいます

《鏡》はラヴェルのエッセンスが非常に多く含まれた作品なので、最初は少し違う角度からラヴェルに入っていきたいと思いました。とはいえ《ボロディン風に》《シャブリエ風に》であっても、距離をとって見た対象を音楽で描くというラヴェルのスタンスは一貫していますね。《水の戯れ》のレッスンでは、先生によく「水に意志はないから」と言われます(笑)。つまり、演奏者の感情で水を動かしたり、水の意志を読み取ろうとしたりするのではなく、まずそこにある水の動きや光を精密に描くということなのだと解釈しています。


――「水に意志はないから」とは名言ですね(笑)

ただ、それを考えたときに、では演奏している自分はどこにいるのか、ということも同時に感じました。感情と音楽のつながりを切ってしまうと、音楽がどこか死んでしまうような感覚もあったんです。でも、その水を認識し、映し出す目はありますよね。水そのものに意志はなくても、その景色を見ている視点はある。その視点をどこに置くのかを探りながら演奏しています。


――後半にソロではなく室内楽のピアノ三重奏曲(トリオ)を選んだ理由は?

ドイツに来てからトリオに集中的に取り組むようになり、それぞれが個を保ちながら、一緒になったりぶつかり合ったりしてひとつの音楽を作っていく、その編成のあり方に魅力を感じていました。ちょうどラヴェルのトリオは、数あるピアノ三重奏曲の中でも本当に傑作だと思いますし、ラヴェルはピアノ作品だけでなく管弦楽や室内楽にも素晴らしい作品を残しているので、前半とは違う角度からラヴェルに触れられると思いました。以前もトリオで共演したことのあるヴァイオリンの石上真由子さん、そして石上さんから紹介していただいたチェロの広田勇樹さんと、3人でどういう音楽になるのか楽しみです。


――ラヴェルのトリオは全4楽章、30分ほどですが、楽譜をみるとどのパートも真っ黒(笑)。音符が細かく書き込まれた、実にラヴェルらしい作品ですね

4楽章制というと、私がこれまで多く取り組んできた初期ロマン派のドイツ音楽にもつながる形式ですが、この作品では、その作り方や時間の流れ方がかなり違うように感じています。ドイツ音楽では、終楽章に向けて意味や時間が積み重なっていく感覚がありますが、ラヴェルのトリオでは、1、2、3楽章があるから4楽章に到達するというより、4つの視点、あるいは4つの異なる世界が並んでいるように感じます。同じものに違う光を当てて見ているような感覚に近いかもしれません。
個人的には、第3楽章の重い雰囲気のあとに、弦の特殊な響きの上にピアノの音色が重なっていく第4楽章の冒頭にとても惹かれます。また、この曲は全体を通して拍子が頻繁に変わったり、第1楽章も8拍子で始まるなど、拍やリズムの感覚がとても独特です。ラヴェルには母方のバスク的、スペイン的な背景もありますし、そうした踊りやリズムの感覚がこの作品にもつながっていて、聴きどころのひとつだと思います。


――ラヴェルへの挑戦は、今後の活動に繋がっていきそうですね

繰り返しになってしまいますが、今回のラヴェルは自分にとって本当に大きな挑戦です。それだけに、このプログラムを終えたあとに自分が何を感じ、どこに関心が向くのかは自分でもまだわかりません。ただ今回は、ショパンを除けば、私にとって初めてひとりの作曲家にフォーカスするコンサートとなります。しかもソロと室内楽という異なる編成からラヴェルを眺められることも、とても面白く感じています。私は作曲家をひとりの人間として見ることに興味があるので、こういう形で作曲家に焦点を当てたプログラムは今後も続けていけたら嬉しいですね。


取材・文/小室敬幸

【掲載開始日】2026年7月22日


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