アメリカを中心に活動を続けてきたヴァイオリニストの丹羽紗絵が昨年に帰国。東京銀座・王子ホールにてリサイタルを開催する。20年におよぶアメリカでの生活を経て、彼女は今どのような音色を日本で響かせるのだろうか。話を聞いた。
――丹羽さんはこれまでアメリカで音楽活動をされていたそうですが、そもそもヴァイオリンをはじめたきっかけは?
両親の影響もあったと思うんですが、自分からヴァイオリンをやりたいと言って2歳から始めました。鈴木鎮一先生のスズキ・メソードで初めて、小学校高学年の時に桐朋学園大学の原田幸一郎先生に習いました。ピアノとヴァイオリンをやっていたんですが、プロになりたいならどちらかを選ばなければならないよ、と小学校4年生くらいの頃に言われて、私は小柄の方でしたし、ヴァイオリンの方が自分に合っていると思って、選びました。それで、原田先生がジュリアード音楽院を卒業されていたので、私もそこに行く!と当時は思っていましたね。
それで、長野や石川で開催されていたアスペン音楽祭に参加させていただいたご縁で、アメリカのアスペンにも何回か行かせていただいて、それでドナルド・ワーレンシュタイン先生に出会いました。それでクリーブランド音楽院、ニューイングランド音楽院やライス大学、イェール大学などで学ばせていただきました。
――その後、ジャスパー弦楽クァルテットの一員としてアメリカを中心に活動されていらっしゃいますね
アメリカでの生活は20年くらい。 日本で20年と半分ずつなので、日本語がうまく出てこないこともあるくらいなんですが(笑)、アメリカではクァルテットとして11年、その後3年くらいフリーランスとしてワシントンD.C.でアンサンブルを中心に演奏活動を続けてきました。
クァルテットとしての活動の間には、本当に素晴らしい、いろいろなプロジェクトに参加させていただきました。コンサートホールで弾くだけではなく、ボランティアの無料コンサート、学校や施設などで演奏する機会もありました。アメリカは貧富の差が大きく、裕福な私立の学校で弾くこともあれば、楽器なんてみたことがないという子の前で弾くこともあって…。メンバーと一緒に、情熱をもって演奏を届けに行きました。
――活動の拠点をアメリカから日本に移したことについて、どのような心境の変化があったんでしょうか?
日本に帰りたい、という想いは5~6年前から考えていました。子どもが2人いるんですが、子どもが生まれたくらいから、自分が音楽をするために両親がどれだけたくさん関わって育ててくれたのか、ということも考えるようになりましたし、長年日本と離れていて、日本に対する思いも強くなってきたんです。
やっぱり、アメリカで10年20年暮らすと半分アメリカ人みたいにはなります。でも、やっぱり自分は日本人なんだというアイデンティティはありましたし、両親が元気なうちに日本に戻りたかった。これまで、日本ではちらほら程度しか活動していませんでしたが、日本で試したい、日本での自分の形を見つけたいと思っていたころに、家族で戻ってこられる機会が出来たので、昨年に日本へ帰ってきました。
――ご自身の中で、音楽的なターニングポイントになった瞬間はいつでしょうか?
やはり最初はスズキ・メソードですね。楽譜から入るのではなく、“音楽”からまず入っていくという教育をしていただきました。原田先生も小学4年生、5年生の私に、今思うと、本当に厳しく指導してくださったと思っています。
ながのアスペン音楽祭、石川アスペン音楽祭を通して経験した、アメリカのアスペン音楽祭 での経験も衝撃的でした。やっぱりこう、日本ではあまり聴いたことのないような演奏をしていて、同年代の子の演奏がすごく伸びやかだったりして、また違うんですよ。日本もレベルは世界的に高いと思いますが、そこで違うものに触れたことがアメリカに来た理由のひとつですね。知らない世界がものすごくあるんだ、と肌で感じました。
ドナルド・ワーレンシュタイン先生のレッスンは…本当にスランプの時期でしたね。面白いレッスンをされる方で、音楽に関係のないことを言い出したり、体のことを考えなおしたり、人形に向かって弾いたり…当時は英語もまだまだでしたから、本当にちんぷんかんぷん。6年ほど教えていただいたんですが、ほぼ5年間はわからなかったんです。その時期は、コンクールにも引っかからなかったですね。でも、5年目のある日、ふと全部が繋がったみたいな気がしたんです。そしたら自分の表現できなかったことが自由にできるようになって、すごく解放されて楽しかったですね。大学4年生の時にはカルテットをやりたいと思っていましたが、大学院に行くか日本に帰るか悩んだんですよ。大学院でその6年目を迎えたので、あきらめないで良かったです。
あとは、やはりカーネギーホールでのデビューコンサートでしょうか。カーネギーホールでの演奏を目標にしていたわけではありませんでしたが、いざそこで演奏できるとなった時に、その場所の歴史――数々のすごい音楽家が踏んできた、素晴らしい芸術を生み出してきたスポットで室内楽をやれる。そこで大きなスタートを切ることができたことは、大きな出来事でしたね。クァルテットを初めて5年目くらいで、自分たちのやりたいことを明確にしろとマネージャーに言われながら、話し合いをして活動を続けてきた上でのカーネギーホールだったので、ターニングポイントになった出来事だったと思います。
―――今回は日本で開催されるリサイタルとなりますが、どのようなビジョンを描いていらっしゃいますか?
まず、前半にクライスラー「愛の喜び」「愛の悲しみ」そして「美しきロスマリン」。ロスマリンはハーブティーにもなるローズマリーという植物のことで、アメリカでは普遍的な愛を代表する植物なんですよ。クライスラーの表現する3つの愛の形ですね。その後に、ピアノを弾いて下さる長富彩さんのソロでリストの「ラ・カンパネラ」を。こちらは長富さんの代表曲ともいえるもので、私も大好きな曲なんです。そちらを聞いていただいて、プロコフィエフ「ヴァイオリンソナタ 第二番」に続きます。
プロコフィエフはウクライナ出身のロシア人で、亡命してロシアを離れ、日本にいたこともあるんですよ。ただ、亡命してもロシアの民族的な楽曲を作曲の中心に置き続けるんです。祖国への想いが強かったのか、その後ロシアに戻るんですが、そこでさらに有名な楽曲をつくります。ところが第二次世界大戦が始まったことで、またロシアを離れることになります。「ヴァイオリンソナタ 第二番」はそんなころに出来上がった楽曲です。もともとフルートのソナタだったものをヴァイオリンにしてもいいんじゃないか、と、ヴァイオリニストのダヴィット・オイストラフにアドバイスをもらって編曲されています。プロコフィエフは、その後も亡くなるまでずっと、祖国愛が無くならないんですよ。
そんなプロコフィエフに重ねてるというほどでもないんですが、私も20年アメリカにいて、やっぱり日本人としてのアイデンティティはものすごくありました。アメリカ人のクァルテットに入って、アメリカの文化をとことん学びましたが、やっぱり消えない日本人としての文化があるんです。それは日本への愛かもしれないし、もしかしたら両親への想いかも知れません。前半は、そういういろいろな愛の形を演奏していきたいと思っています。みなさんにとっての愛はなんですか?という気持ちで演奏したいですね。
――後半はどのようなイメージになっているのでしょうか?
後半にはヴァイオリンの名曲をお届けします。クライスラーももちろん名曲なんですが、特にモンティ「チェルダッシュ」は私が小さい時から、本当にいろいろな場所で演奏してきた曲。ピアノやギターの伴奏、伴奏なし、カルテットやオーケストラなど、いろんな形で楽しんできた曲です。クラシックに馴染みのない方にも楽しんでいただける曲を考えたときに、やっぱり自分とともに育ってきた曲なのがこの曲なので、後半の幕開けとして選びました。
マスネ「タイスの膜想曲」はフランスのオペラの曲で、 こちらも小さい時から弾いてきた曲ですね。このフランスの少し静かな曲から、ヴァイオリンのソナタと言えば1番2番に有名なフランクの「ヴァイオリンソナタ イ長調」に続きます。フランクはドイツ人のご両親をもったフランス人で、私の中ではフォーレとは違ったフランスの味、というのか、すごく濃厚なフランスの音楽だと思っています。この曲が書かれたのが、確か彼が無くなる4年前くらいで本当に集大成になっているんです。いろいろな作曲法を、すべて完璧に、美しく融合させていて、すべての楽章が素晴らしい。スキがないとみなさんおっしゃるんですけど、本当に作曲的にも音楽的にも素晴らしいものになっています。私自身の集大成、と言うにはおこがましいんですが…アメリカでやってきた20年、私にとっての節目となるタイミングで、日本でどんな音楽活動ができるのかというスタートですから。それもある意味、集大成として、この曲で締めくくるのがいいのではないかと何度も練習してきました。
――体に馴染んだ楽曲から、アメリカでの20年を経た集大成を感じさせる楽曲まで、まさに今の丹羽さんを映したようなリサイタルになりそうですね。久しぶりの日本での生活はいかがですか?
日本に帰ってきて、今大切にしている時間や、自分が安らぐもの、逆に奮い立たせるもの――そういう、日本での過ごし方の中で大事にしている時間があるんです。帰国してからはいろいろなコンサートに足を運んでいるんですが、今の日本の音楽界を引っ張っている子たちが、自分の同世代だったり、後輩だったり、ちょっと上の先輩だったりするんですね。そんな中で私は浦島太郎状態(笑)。学生の時に一緒だった子が音楽界を作っていて、そこに足を運んで吸収したり、学んだりする時間がすごく刺激的なんです。
アメリカでの活動は、自分の中ではやりきった感覚がすごくありました。だからこそ、帰ってきた。もちろん、まだまだやれることはあったと思うんですが、自分の感覚としてはアメリカの音楽とはこうだった、こうしてきた、という結論のようなものがあります。だから、日本での時間が安らぎだけじゃなく、 新しい燃えるような 刺激があって、これを求めに帰ってきたのかな、と思っています。もちろん、子どもと過ごす時間とか、安らぐ時間もあるんですけどね。
――日本での刺激が、今後の演奏にも大きく影響がありそうですね。最後にリサイタルを楽しみにしていらっしゃる方にメッセージをお願いします!
私の人生は、ちょっと変わってるというか、日本とアメリカ半分半分の人生を生きてきました。アメリカで培ってきた経験を自分らしく、フレッシュに出したいですし、それをみなさまに知っていただきたい。いろんな愛というテーマについてはピアノの長富さんとも少し話をしたんですが、女性としての変化を経ての愛の形など、今の自分をみなさんと楽しみながら共有できたらと思っています。
――まさに等身大の、丹羽さんの今までとこれからを繋ぐようなリサイタルになりそうですね。本日はありがとうございました
取材・文/宮崎新之
丹羽紗絵ヴァイオリン・リサイタル2022
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