ピアニストであり、作曲家・作詞家としても活躍する渡邊智道。東京・池の端スタジオにてピアノ教室を開講しつつ、「ピアノ芸術研究会」を結成してロマン派音楽の普及を図るなど、幅広い活動を続けている彼が、5月に浜離宮朝日ホールにてリサイタルを開催する。どのような想いでリサイタルに臨むのか、話を聞いた。
――ピアノを始めたきっかけは?
6歳でピアノ教室に入ったんですが、でもすぐにやめてしまったんですよ。その後は何回か続けたりやめたりを繰り返していて……なので、ピアノをやっていない期間もありました。
――そうだったんですね。本格的にピアノをやっていこうと切り替わったのはいつ頃でしたか?
高校に進学するときですね。ピアノの先生に芸大付属の音楽高校を教えてもらったんです。自分や家族だけでは見つけられない高校だったと思うので、ありがたかったですね。受験前は、ピアノの先生のところに入り浸って練習していました。東京に出たい、というのは大きかったですね。中学生なりに、東京に憧れていました。
――その後、無事東京の芸大付属音楽高校へ進学され、大学も芸大に入られました。学生生活はいかがでしたか?
やっぱり自分の中では、一筋縄ではいかなかったですね。クラシック以外の音楽も好きだったので、大学の途中で広告系の音楽会社のアシスタントをやるなど働いていたりしました。その時期は打ち込みの音楽とかを好んでいて、そうなると音楽大学とはうまくいかなくなる。そういう精神的な部分でうまくいかなかったんだと思います。
――もともと、いろいろなものに興味を持つタイプではあったのでしょうか?
そうですね、いろいろな音楽が好きではありました。
――音楽的なルーツというか、自分の中で音楽の捉え方が変わったポイントはいつ頃でしたか?
何回か音楽的なイメージの転換はあったのですが、沖縄で出合った音楽は強烈に記憶に残っています。浪人時代に半年ほど、沖縄にいたのですが、それまで高校3年間、クラシック漬けで、大学受験もまともにやらずにフラッと沖縄に行って、三線やエイサーなどを聴いて、多分、教訓めいたものも感じたのかも知れませんが、そこで自分にとっての音楽、音楽への精神性が大きく転換したように思います。それまで、音楽をやってきてはいたけれど、音楽についてそんなに考えていなかったんだと思います。試験があるから、授業があるから、そういう理由でした。
――タスクがあって、それをこなして技術は磨いていたけれど、深くまで考えていなかったような感覚になったんでしょうか。
今になって思うのは、もっと疑問に思ってよかったんだな、と。いわゆるレッスンって、演奏方法とかを教わっていくわけですが、“こっちの方がいいだろう”とか、自分で“こうしてみよう”とか、疑問に思ったとしても、自分で判断ができなかった。そういうことができるようになったのは、ここ数年のことですね。
――何か疑問や違和感を覚えても、それをどうすればいいかわからないから、そのままにして、違和感を抱えたまま言われたとおりに演奏する、というような感じでしょうか。
そうですね。それが強烈に出てしまったのが、大学時代だったと思います。人並みに違和感は覚えてしまい、心の中で“これは違う”って思うけど、それに対してどうあるべきかを知らないし、対処できない自分がずっといて、形にできない不満がありましたね。そういう部分は大学を出てから、今使っているピアノに出合って変わりました。
――現在、ニューヨーク・スタインウェイのピアノで演奏をされていますが、どういうところが魅力なんでしょうか。
本当に抽象的な表現になってしまうのですが、大学時代に感じていた“こうなんじゃないか”とか、“これは違うんじゃないか”という違和感が、すべてこのピアノを弾いたことで一致したというか。すべてに答えを見せてくれた、ということが一番大きいです。音楽に対して自由にしてくれたというか、これで良かったんだ、と思わせてくれました。以前感じていたような迷いは、吹っ切れましたね。
――いろいろな苦労や葛藤が、楽器との出合いですべて報われた感じですね。
目の前にある方法しか知らないので、その中で精いっぱいやっていたんですけどね。それで評価をしていただいたこともあったんですけど、無理やりに伸ばしていたような感じでもありましたね。でも、楽しいことはたくさんありましたよ。学生時代はすごくいい場所で学ぶことができましたし、その時に出会った友人の存在も大きいです。今でも繋がっています。すべてが経験として身になっていると思っています。
――ここ最近での音楽的な変化など、自身のピアノについて感じていることはありますか?
演奏するにあたって、奏法を突き詰めていた時期があったのですが、こういう弾き方をしたらいいピアノの音が鳴るとか、こういう弾き方ならバランスのいい響き方をするとか。それを経てなのか、最近はよりイメージを大事にするようになりました。簡単に言うならば、表に出てくる音を大事にして、その音が良ければフィジカルの動きは一番大事というわけではないな、と。極端に言えば、フィジカルの動きを極めるのであれば、スポーツをやっていればいい。音って無機質で、それが連なることで芸術って生まれているんです。その連なりが生まれる前――その作曲家の精神状態だったり、イメージしたものだったりが大事だと思うんですね。自分は結構表現主義的な感じだったのですが、そこの感覚は大きく変わったように思います。
――自分の中に生まれたイメージが、出てきた音に込められているならば、奏法などそれ以外の部分にはさほどこだわらなくなったんですね。もうすぐリサイタルがありますが、どのようなものにしたいですか?
まずは、楽器の響きを最大限に使わせていただきたいですね。すべてを大きく、心を保ちながら臨めたらと思っています。このピアノの良さを最大限にお伝えして、その緊張感も一緒に楽しめたらいいですね。選曲については、このピアノだったら弾いてみたいと思った曲たちです。CDに収録したときに、そういう観点で選びまして、収録後にライブで披露する機会が無かったので、楽しみですね。
例えば、ショパンのソナタ(ピアノ・ソナタ第3番 Op.58 CT203 ロ短調)に関しては、自分の中にもともとあったイメージと、譜面を眺めて取り組んでみたときのイメージが結構ちがいました。言葉にすると伝わりにくいかもしれないんですが…すごくカッチリと書かれている楽曲なのですが、それはカッチリと書く必要があったということだと思うんですね。そこの部分が、自分としてはダークサイドでした。非常に透明感のある繊細な音なんですけど、それゆえに狂気もある。闇から見た光の眩しさのような二面性を感じました。今回は、この楽器でその二面性、表面的な美しさだけじゃなくて、その奥に秘めた狂気も表現できたらと思っています。
今回セレクトした楽曲は、多くがそういうテーマを含んでいるように思いますね。いわゆる表面的に受け取られるイメージとは違う面というのが実はあって、そこも含めてお届けできたらと思います。
――楽曲の新たな一面を感じられるかもしれないですね。楽しみにしています!
インタビュー・文/宮崎新之