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【インタビュー】ラ・ストラヴァガンツァ東京 黒木岩寿

【インタビュー】ラ・ストラヴァガンツァ東京 黒木岩寿

黒木岩寿

©Shigeto imura

コントラバスの黒木岩寿とヴァイオリンの松野弘明をリーダーに、ヴィヴァルディの残した楽曲の中から知られざる傑作を発掘し続けているアンサンブル、ラ・ストラヴァガンツァ東京。自らを”ヴィヴァルディびと”と称し活動を続ける彼らが、黒木岩寿プロデュースによる公演を2022年1月16日(日)に開催する。果たしてどのようなステージになるのか、プロデュースを手掛ける黒木に話を聞いた。


――今回の演奏会はどのようなステージになりそうでしょうか。

やっぱり、僕らがほかと違うところと言えばリュートが入っていることじゃないでしょうか。リュートの生音ってあまり聴かれたことがないんじゃないかと思うんですが、この音があるだけで一発でギリシャ・ローマ時代に戻れる。タイムスリップ感が満載な不思議な音色なんですよ。3曲目にヴィヴァルディの「リュート協奏曲 二短調 RV93」を演奏しますが、そこが非常に珍しい特徴かと思います。編成もいろいろ特徴があって、全員一緒に演奏するもの、ソロで弾いていただくところ、ヴァイオリン4本だけのところ……ヴァイオリン4本だけって、お聴きになったことがある方は少ないんじゃないかな? 見た目も面白いんですが、音もまったく違う世界に一瞬で引き込んでくれます。テレマンの「4つのヴァイオリンのための協奏曲 ト短調 TWV40:201」なんだけど、僕は2楽章が好きなんですよ。バロック時代の曲なんだけど、僕らの解釈としてはロシアの作曲家のシュニトケのような、凍り付いた大地のようなイメージなんです。すりガラスの向こうにドームが見えてくるような、映画のような音で、ヴィヴァルディは非常にアツいんですけど、そこで非常に温度差が付くんですよ、僕の中ではね。そういう感じで、見た目と音の響き、その温度で、一曲一曲で全然違う世界をやっていけたらと思っています。


――その触りを聞くだけでも、とても個性的なステージになりそうですね。

ヴィヴァルディの「チェロ協奏曲 ニ短調 RV407」も演奏するんですが、これは日本ではあまり演奏されない曲なんです。それはやっぱり理由があって、味わい深すぎるというか、ちょっと難解すぎるというか…ちょっと伝わりにくい部分があるんですね。でも、そう思いきや、すごくアツいし、愛情があるしで、これを植木昭雄さんが弾くとさらにいいんですよ。そのほかにも三拍子のものを二拍子でとってみたりね。譜面は三拍子なんだけど、僕にはそう聴こえなくて。お客さんもきっと、1・2・3で聴いているのに、急にリズムの感じ方が変わるはず。というか、そうさせたいんです。そういうリズムの面白さがギンギンに映える曲もあります。そんな”変態バンド”の一押しは、ヴァイオリンの松野弘明さんと僕とでやる、ヘンデルの「パッサカリア」。ハルボルセンがアレンジしている曲で、本来はヴァイオリンとヴィオラの曲なんですが、それをヴァイオリンとコントラバスで弾くというものなんです。もう血まみれですよ(笑)。もうプロレスの関節技みたいな感じになっていると思いますね。そして、僕らの知の中心部と言える男がチェンバロの山田武彦なんですが、彼が音楽的には中心になっているんです。本業は作曲家なんですが、もうすべてが変態的(笑)。ソロアドリブを何回かやったときも、「じゃあ下半身がモーツァルト、上半身はベートーヴェンでやろう」なんて言って。そういうことができちゃう人なんですよ。その合間に、火曜サスペンス劇場で人が殺されてしまったところを入れよう、とかね。W.F.バッハの「チェンバロ協奏曲 ヘ短調」をやるんですが、バロックの曲にそういうエッセンスを思いっきり入れていこうかと思っていますよ。


――本当に、現代だからこそできる演奏かもしれないですね。

もちろん、バロック音楽をバロック然として演奏するんだけど、プラスアルファのところが濃いんです。我々と言うザルに入れて咀嚼していくと、どういうことになるのか、ってことなんですよね。もはや、どこを目指していいのかというくらいの盛り合わせです。おそらく、お客様も全曲聴いたことが無いんじゃないかな。でも、聴いたことが無くても、一瞬でまるでヒップホップのコンサートのようにノセて、お祭り状態にしますから。そういう感じに発信していきます。最後にヘンデルの「合奏協奏曲 Op.6, No.12 ロ短調」をみんなで演奏するんですが、これは、これから数年かけてやっていきたい曲目です。もちろん、僕らはヴィヴァルディが中心なんですが、ヘンデルの「合奏協奏曲」も全部で12曲ありますので、ヴィヴァルディとヘンデルの二つの柱を中心としてやっていけたらと思っています。


――今後の「ラ・ストラヴァガンツァ東京」の指針ともいうべきサウンドになっているということですね。2008年に始動されましたが、今なお新しい発見を続けていらっしゃることが伝わってきます。

大げさですけど、年齢を重ねてくると今まで見えなかったものが見えたり、感じなかったものが感じられるようになったりすることって、あったりするじゃないですか。それが表現できればいいなと思っています。何年か前にやった曲も、また違うようになるかもしれないしね。その時に感じたものを表現した結果、違っている、同じだった――そこを素直に突き詰めていければと思います。


――2008年にスタートした当時と比べて、演奏に対する想いやパッションに変化はありましたか?

パッションとしてはまったく同じですね。さらにアンテナの範囲が広くなったかな。ヴィヴァルディを演奏することから始まって、テレマンとかヘンデルとか、ほかの曲もやるようになってきましたから。いい曲、感じる曲を、ヴィヴァルディに限らずにやれるようになりました。ほかの作曲家にも、再発見を許してくれるのりしろがあるな、と感じられるようになったと思います。


――長年活動されてきて、クラシックの音楽シーンにおける変化を感じることはありますか?

皆さん、どんどんうまくなっていますね。技術があって、テクニックもあって、オーケストラのレベルもどんどん上がっています。でも、もしかすると、演奏がCDのようになってしまっているところもあって……。きれいで、絶対に崩れない、サウンドもまとまっています。でもそれはCDにやらせればいいことで、僕としてはCDじゃ出ないでしょ、というところを生でやりたい。それはグチャグチャにするってことじゃなくて、クオリティは高めていくんだけど、CDのようにまとまった演奏をすることが目的ではないんです。生でしかできないことを、削らない。そのためには、全員が大きい耳で、今鳴っているサウンドを聴ける耳が必要です。縦が揃っているとかそんなことは当然で、このホールでやる意味はあるのか、我々がやる意味があるのか、を聴かないといけないんですね。下手をすると、弾くことに夢中になって、聴くことができていないんです。そのためには、僕だけの力じゃなく、みなさんでちょっとずつ力を集めて、”生の喜び”を聴いて、それを恥ずかしげもなくやればいい。


――CDなどで素晴らしい演奏が身近になってしまったからこそ、”いい音楽”が画一化されてしまって、世界が逆に狭くなってしまった部分はあるかも知れませんね。

例えば、オーケストラの音でもそういう部分があるんですよ。アメリカはメソッドがすごく合理的。コントラバスもアメリカスタイルとドイツスタイルで構え方が違うんです。日本人はドイツで習った人が多くて、僕もドイツスタイルです。その構え方だけで、音も全然違うんですね。アメリカンスタイルは合理的で音がバーンと出ます。ドイツスタイルは重さを乗せるのが難しいスタイルなので、音は小さくなりますが響きがある。一長一短なんですね。でも、それがよかった。アメリカだと音がはっきりしていて、ドイツだと音がぼやける。ぼやけるってネガティヴに聞こえるかもしれないけど、これが教会に響くと重厚感のあるサウンドになるんです。


――国や地域でスタイルにそんな明確な違いがあるんですね!

そうなんですよ。例えば、バーンスタインの「キャンディード」のような早い曲をドイツスタイルで響かせると、何をやっているかわからなくなってしまうんです。だから、最近はドイツ人が、アメリカ人みたいな機能的な音で弾いているんです。逆にアメリカ人は、機能的過ぎて固かったよね、ってドイツ人みたいな弾き方になってきているんですね。そうすると、融合されちゃってどちらの特徴も消えてしまう。昔は、これはクリーヴランド、これはウィーン、これはロンドン……って音で分かったんだけど、今はみんなうまくなっているから、みんな同じになってきているんだよね。みんながうまくなることはいいことし、CDの音も良くなっていて、それもいいことなんだけど、個性が無くなっている。それに気付かないで、縦の線がそろっているだとかそういうことに集中しちゃうと、何か大事なことが削がれてしまうのかな、と。だから、やっぱり個性を大事にしたいんですね。


――素晴らしい演奏例があるから、それを正解として疑うことをしない、という部分はあるかも知れないですね。

僕なんかベートーヴェンの「運命」を、何回弾いたかわからないくらい弾いた と思うんだけど、それでも飽きないんですよ。僕は音楽バカだから、冒頭のメロディを、何度弾いても感動しているんです。大きな感動があれば、ともすれば”これが正解”っていう演奏だと思ってしまうかもしれない。でも、音楽に正解は絶対に無い。聴く側も、そういう個性を発見できるようになっていけたらいいですね。人と違う演奏をしていることが、”コイツが変わっている”ではなくて、”違う個性だね”って認めてもらえるようなアプローチをしていかなきゃ。でも、それはわざと違うようにやるとかではなくて、自分たちが目指していることをやっていれば必ずそうなっていくと信じているんですけど。


――素晴らしい演奏を目指して解釈した結果の違いを”間違い”ではなく”個性”として捉える、というのは聴く側としてもとても大切な視点ですね。きっと、これからクラシック音楽を志す若い世代に響くメッセージだと思います。

でも、個性を出すためには、ただ単に自由じゃダメなんです。自由と不自由は同義語。不自由があるからこそ、自由を感じられるのと同じように、個性にもそういう面がある。個性は好き勝手にやるものではないですから。個性を得られるようになるまで、勉強し続けるしかない。その勉強も一方向だけではダメです。いろいろな方向から勉強して、試行錯誤して、”これはこうだったんだ!”と、後から気付ければいいんです。そうやって一生懸命に勉強して得られた世界は、個性として世界に1個だけのものになる。その個性ができるまで、一生懸命にやってほしいというのが、若い人に向けてのメッセージですね。


――個性は、制限の中での学びを重ねたからこそ生まれてくるもので、好き勝手に演奏することではないんですね。

クラシック音楽は音符が決まっていて、そこに制限がある。そこがジャズと違うところですよね。ジャズはアドリブで、無から生み出していく難しさ。脳にかすめたインスピレーションを、自分が思った通りに弾けたら成功です。もし自分の思った通りに弾けなかったら、お客にウケていたとしても多分、成功ではない。そういう自分に正直であるというところが、ジャズの難しさだと思います。そこが、クラシックの場合は、難しさの方向性が全然違っています。楽譜があるので、ヘタをすると全員同じ演奏になってしまうんですね。”オレが弾けばこれだけ違うんだよ”っていうことが、楽譜という制限があるからこそ、なおさら難しい。……僕は学生の頃に学ランを着ていて、みんなと同じ学ランなんだけど俺が着ると違う、っていう感じになりたかったんですよ。ツッパリみたいに形を変えちゃうのは違う。だって、そもそも形を変えてるんだもの。同じものが中身で違う、というものにしたかった。クラシック音楽も、それと同じですね(笑)。違うから変わっているんじゃなく、人と同じことをやっているんだけど”違う”っていうことが個性なんです。そのためには、めちゃくちゃ勉強しなきゃいけないし、自信もなきゃいけない。その自信は、さんざん自信を砕かれまくって……その砕け散った自信を積み重ねて、やっと出来上がるものですから。


――いろんな挑戦や冒険をして、自信を打ち砕かれまくった上に、現在の音楽があるということなんですね。最後に、演奏を楽しみにしている方にメッセージをお願いします。

今はご時世から、家でCDを聴いたりYouTubeを観たりされているんじゃないかと思います。そういう方に、生の音、生の音圧を感じていただきたいですね。CDだと、周波数的にカットされてしまっているし、全然違う音になっているんです。それをホールで聴くと、まるで違う。そして、音のスピード、圧力、床から伝わってくる振動…それが家では味わえないもの。僕らは、みなさんの五感よ、ひらけ!という気持ちで演奏しているので、それを味わっていただいて、”生きている”ことを五感で感じていただきたいです。




インタビュー・文/宮崎新之


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